みだらけ福祉会とは
みだらけの由来
徳川家康から命名されたもので、江戸時代の歴史の本にも多く書かれ、「焼津昔ばなし」(焼津市の発刊)にも書かれている。
当法人の理事長の先祖の良知家は慶長年間の検地帳によれば、高草山の山麓の関方・方ノ上一帯は全部良知村であり、先祖の良知惣右衛門が開拓した惣右衛門村は現在の惣右衛門の地名で残っている。
徳川家康が、旧志太郡に来れば、必ず良知惣右衛門のところに寄ったほど親交が深かった。
惣右衛門も度々駿府城を訪ねたが、ある日家康公から駿府城に来るように言われ、お土産にドジョウを「つっとこ」と呼ばれる藁で作った入れ物に入れ持っていったが、藁の入れ物のため途中でドジョウが逃げてしまい、着いたときには2~3匹しかいなかったが、家康は日頃から正直で明るい性格の惣右衛門を可愛がっていたために、大変喜んでたくさんのご馳走と小判を頂きましたが、惣右衛門はその小判を全部城内で振る舞ってしまいました。そのことを家康が聞いて、「仕官を勧めても受けず、金をやっても人に振る舞い、よくよく欲のない奴だ。以後みだらけ(御百性家)と呼べ」と言われ、以後惣右衛門のことを「みだらけ」「みだらけ」といって一層可愛がりました。
春日の局(竹千代の乳母、大奥の実権者)もおしのびで何度か来られた。その時に竹千代の腹掛け(金時)を春日の局が良知家においていった。
良知惣右衛門は代々里長であり大庄屋として、幕末を迎え終わり当時は「みだらけの里」といわれ色々と歴史上の方が来られます。
創設時の想い
創設者 良知武男
創設者である、故良知武男氏は数年にわたって寝たきりの母と子供のいなかった叔母の介護を続け、その大変さと苦労を身にしみて経験しました。当時、特別養護老人ホームは志太地域には2つ、収容定員は100名しかなく、収容能力が著しく不足していました。
そのような中、同じ悩みを持つ多くの人たちが救われるならばという強い信念から、先祖代々の広範な土地と多額な現金を寄付するとともに、これに賛同する同士を募って、
「たとえ此の世の終末であろうとも吾は今日特養を造る」
と昭和60年7月に社会福祉施設の経営母体となる当法人を設立、翌年4月、特別養護老人ホームを開設いたしました。
あおい荘の景観
志太平野の東端に位置し、北は高草山を背負い、南は青松そよぐ駿河湾を望む。昔から魚介類の水揚げ量が日本屈指の焼津市南端の大井川町堺の志太米の産地でもある田園地帯に囲まれた静かな環境の中にあって、建物及び設備はどの施設をとっても明るく、日当り風通しも良く、しかも安全性にも細心の配慮がなされています。
この恵まれた環境の中で、人間性の尊重を基本に、利用者に対しては十分な介護及び相談により毎日を楽しく家庭的生活を、また通所者には1日が楽しく意義のある送り方ができ、またの日を待ち焦がれるようなサービスをすると共にこれらの方の機能の維持、向上に努めていきます。